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「善の研究」西田幾多郎哲学読書会で第七章の「実在の分化発展」を学びました

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「善の研究」西田幾多郎哲学読書会で第七章の「実在の分化発展」を学びました「善の研究」という西田幾多郎の書籍は哲学書だけあって難解な内容です。そこで、西田幾多郎記念哲学館で実施している哲学読書会にできるだけ参加して理解を進めるようにしています。
12月21日(土)は第七章の「実在の分化発展」を学びました。その様子をここに記録しておきます。

「善の研究」西田幾多郎哲学読書会

会場は西田幾多郎記念哲学館

ちょうどこの日は冬至でした。これからが冬本番。重苦しい鉛色の空が北陸の冬を表現していますね。

西田幾多郎記念哲学館は小高い丘の上にあります。天気の良い日は立山連峰がはっきりと見えることがあります。この日はくもり空でしたがかすかに立山連峰が真っ白に雪化粧している様子を見ることができました。

哲学読書会の会場は地下ホールです。

読書会なのでみなさん書籍や資料をご持参されています。会場の入口には「手元用ライト」が置いてあり自由に使えます。このあたりとても親切だなと感心します。

西田幾多郎と『善の研究』とは?

まず、西田幾多郎について少し触れておきましょう。西田幾多郎(1870-1945)は、日本を代表する哲学者で、彼の思想は「西田哲学」とも称されます。

『善の研究』は西田幾多郎の代表作であり、1911年に初めて出版されました。この書籍は、日本の哲学史において非常に重要な位置を占めています。

※この書籍は西田幾多郎記念哲学館の図書室の前に展示されていました。

『善の研究』の概要

『善の研究』では、西田幾多郎が「純粋経験」という独自の概念を基礎にして、私たちの世界や存在を哲学的に探究しています。純粋経験とは、主観と客観が分かれる前の、まっさらな状態での経験のことを指します。西田は、この純粋経験からすべての認識や実在が成り立つと主張しました。

さらに、西田は「善」を、個人の利害や快楽にとらわれず、普遍的な観点から捉えることが重要であると説いています。彼の思想では、個々の物事は単独ではなく、対立と統一を繰り返しながら一つの全体を形成する存在であり、その全体を深く理解することが「善」であるとされています。この書籍は、哲学的な存在論や倫理学の分野で、現在でも多くの影響を与えています。

第七章 実在の分化発展

私は青空文庫で善の研究を読んでいます。

なかなか難しい内容なので、事前に該当する箇所についてChatGPTで現代文にリライトして予習して臨みました。それでも難しいのですが、一助にはなります。

以下はその内容です。

西田 幾多郎. 善の研究 (pp.73-77). 青空文庫. Kindle 版.からChatGPTで要約しました。

第七章 実在の分化発展

原文1
意識を離れて世界ありという考より見れば、万物は個々独立に存在するものということができるかも知らぬが、意識現象が唯一の実在であるという考より見れば、宇宙万象の根柢には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。我々の知識が進歩するに従って益々この同一の理あることを確信するようになる。今この唯一の実在より如何にして種々の差別的対立を生ずるかを述べて見よう。

リライト1
意識から切り離された世界が存在すると考えるならば、万物はそれぞれ独立して存在していると言えるかもしれません。しかし、「意識現象が唯一の実在である」と捉えるならば、宇宙のすべての現象の根底には一つの統一力が存在し、万物はその唯一の実在が姿を変えたものだと考えざるを得ません。私たちの知識が進むにつれて、この同一の理が存在することをますます確信するようになります。では、この唯一の実在からどのようにして多様な差異や対立が生じるのかを説明しましょう。

原文2
実在は一に統一せられていると共に対立を含んでおらねばならぬ。ここに一の実在があれば必ずこれに対する他の実在がある。而してかくこの二つの物が互に相対立するには、この二つの物が独立の実在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ、即ち一の実在の分化発展でなければならぬ。而してこの両者が統一せられて一の実在として現われた時には、更に一の対立が生ぜねばならぬ。しかしこの時この両者の背後に、また一の統一が働いておらねばならぬ。かくして無限の統一に進むのである。

リライト2
実在は一つに統一されているだけでなく、同時に対立も含んでいなければなりません。一つの実在があるならば、それに対するもう一つの実在が必ず存在します。そして、この二つのものが互いに対立し合うためには、これらが独立した存在ではなく、統一されたものから分化・発展したものでなければなりません。つまり、一つの実在が分化し発展することで対立が生じるのです。さらに、この二つが統一されて一つの実在として現れると、また新たな対立が生まれます。その際には、さらに新しい統一が背後で働いていなければなりません。このようにして、統一は無限に進化していくのです。

原文3
これを逆に一方より考えて見れば、無限なる唯一実在が小より大に、浅より深に、自己を分化発展するのであると考えることができる。此の如き過程が実在発現の方式であって、宇宙現象はこれに由りて成立し進行するのである。

リライト3
逆の視点から見ると、無限なる唯一の実在が、小さなものから大きなものへ、浅いものから深いものへと自己を分化し発展させていく過程だと考えることができます。このような過程が、実在が現れる方式であり、宇宙の現象はこの方式によって成り立ち、進行しているのです。

原文4
斯の如き実在発展の過程は我々の意識現象について明にこれを見ることができる。たとえば意志について見ると、意志とは或理想を現実にせんとするので、現在と理想との対立である。しかしこの意志が実行せられ理想と一致した時、この現在は更に他の理想と対立して新なる意志が出でくる。かくして我々の生きている間は、どこまでも自己を発展し実現しゆくのである。

リライト4
このような実在の発展の過程は、私たちの意識現象の中に明確に見ることができます。たとえば、意志を例にとると、意志とは何らかの理想を現実化しようとするものであり、現在と理想との間に対立が生じています。しかし、その意志が実現されて理想と一致すると、その現在はさらに別の理想と対立し、新しい意志が生まれるのです。このようにして、私たちは生きている間ずっと、自分自身を発展させ、実現し続けていくのです。

原文5
次に生物の生活および発達について見ても、此の如き実在の方式を認むることができる。生物の生活は実に斯の如き不息の活動である。ただ無生物の存在はちょっとこの方式にあてはめて考えることが困難であるように見えるが、このことについては後に自然を論ずる時に話すこととしよう。

リライト5
次に、生物の生活や発達について考えてみると、このような実在の法則を認めることができます。生物の生活はまさに、このような絶え間ない活動そのものです。ただし、無生物の存在については、この法則に当てはめて考えるのは少し難しいように思えます。この点については、後に自然を論じる際に詳しく述べることにしましょう。

原文6
さて右に述べたような実在の根本的方式より、如何にして種々なる実在の差別を生ずるのであるか。先ずいわゆる主観客観の別は何から起ってくるか。主観と客観とは相離れて存在するものではなく、一実在の相対せる両方面である、即ち我々の主観というものは統一的方面であって、客観というのは統一せらるる方面である、我とはいつでも実在の統一者であって、物とは統一せられる者である(爰に客観というのは我々の意識より独立せる実在という意義ではなく、単に意識対象の意義である)。

リライト6
では、ここまで述べてきた実在の基本的な法則から、どのようにしてさまざまな実在の違いが生じるのでしょうか。まず、「主観」と「客観」の違いはどこから生まれるのかを考えてみましょう。主観と客観は、それぞれ独立して存在するものではなく、一つの実在の二つの側面にすぎません。つまり、主観は統一する側面であり、客観は統一される側面です。私たちが言う「我」とは常に実在の統一者であり、「物」とは統一される存在なのです(ここで言う客観とは、私たちの意識から独立して存在する実在ではなく、単に意識の対象を指しています)。

原文7
たとえば我々が何物かを知覚するとか、もしくは思惟するとかいう場合において、自己とは彼此相比較し統一する作用であって、物とはこれに対して立つ対象である、即ち比較統一の材料である。後の意識より前の意識を見た時、自己を対象として見ることができるように思うが、その実はこの自己とは真の自己ではなく、真の自己は現在の観察者即ち統一者である。この時は前の統一は已に一たび完結し、次の統一の材料としてこの中に包含せられたものと考えねばならぬ。自己はかくの如く無限の統一者である、決してこれを対象として比較統一の材料とすることのできない者である。

リライト7
たとえば、私たちが何かを知覚したり、思考したりする場合、「自己」とは、それらを比較し統一する働きを持つ存在であり、「物」とはそれに対して立つ対象、すなわち比較や統一のための材料です。後の意識から前の意識を振り返ると、「自己」を対象として見ることができるように思えますが、実際にはその「自己」は本当の自己ではありません。本当の自己とは、現在の観察者、つまり統一する者そのものだからです。この時点では、前の統一はすでに一度完結しており、それは次の統一の材料として含まれたものと考えなければなりません。自己はこのようにして無限の統一者であり、決して対象として比較や統一の材料にされるものではないのです。

原文8
心理学から見ても吾人の自己とは意識の統一者である。而して今意識が唯一の真実在であるという立脚地より見れば、この自己は実在の統一者でなければならぬ。心理学ではこの統一者である自己なる者が、統一せらるるものから離れて別に存在するようにいえども、此の如き自己は単に抽象的概念にすぎない。事実においては、物を離れて自己あるのではなく、我々の自己は直に宇宙実在の統一力その者である。

リライト8
心理学の観点から見ても、私たちの自己とは意識を統一する存在です。そして、「意識こそが唯一の真の実在である」という立場に立つと、この自己は実在そのものを統一する存在でなければなりません。心理学では、統一者である自己が、統一されるものから分離して独立に存在するように語られることがありますが、こうした自己は抽象的な概念にすぎません。現実には、物から切り離された自己は存在せず、私たちの自己はそのまま宇宙の実在を統一する力そのものなのです。

原文9
精神現象、物体現象の区別というのも決して二種の実在があるのではない。精神現象というのは統一的方面即ち主観の方から見たので、物体現象とは統一せらるる者即ち客観の方から見たのである。ただ同一実在を相反せる両方面より見たのにすぎない。それで統一の方より見れば凡てが主観に属して精神現象となり、統一を除いて考えれば凡てが客観的物体現象となる(唯心論、唯物論の対立はかくの如き両方面の一を固執せるより起るのである)。

リライト9
精神現象と物体現象の区別も、決して二つの実在が存在するわけではありません。精神現象は統一する側面、つまり主観の立場から見たものであり、物体現象は統一される側面、すなわち客観の立場から見たものにすぎません。同一の実在を、相反する二つの側面から捉えただけのことです。そのため、統一の側面から見るとすべてが主観に属し、精神現象として現れます。一方、統一を除いて考えると、すべてが客観的な物体現象になります。このような考えの偏りが、唯心論と唯物論の対立を生む原因となるのです。

原文10
次に能動所動の差別は何から起ってくるか。能動所動ということも実在に二種の区別があるのではなく、やはり同一実在の両方面である、統一者がいつでも能動であって、被統一者がいつでも所動である。たとえば意識現象について見ると、我々の意志が働いたというのは意志の統一的観念即ち目的が実現せられたというので、即ち統一が成立したことである。その外凡て精神が働いたということは統一の目的を達したということで、これができなくって他より統一せられた時には所動というのである。物体現象においても甲の者が乙に対して働くということは、甲の性質の中に乙の性質を包含し統括し得た場合をいうのである。

リライト10
次に、「能動」と「所動」の違いはどこから生じるのでしょうか。能動と所動という概念も、実在が二つに分かれているわけではなく、同一の実在の二つの側面にすぎません。統一する側が常に能動であり、統一される側が所動なのです。たとえば意識現象について考えると、私たちの意志が働いたというのは、意志の統一的な観念、つまり目的が実現したことを意味します。これは統一が成立したことにほかなりません。また、精神が働いたというのも、統一の目的を達成した状態を指します。一方で、他の力によって統一された場合、それは所動とされます。物体現象においても、ある物が他の物に働きかける場合、その働きかけが成立するのは、前者の性質の中に後者の性質を包含し統括する力があったときだけです。

原文11
かくの如く統一が即ち能動の真意義であって、我々が統一の位置にある時は能動的で、自由である。これに反して他より統一せられた時は所動的で、必然法の下に支配せられたこととなる。

リライト11
このように、統一することこそが能動の本質的な意味です。私たちが統一する立場にいるとき、私たちは能動的であり、自由であると言えます。一方、他の力によって統一されるとき、私たちは所動的であり、必然的な法則に支配されることになります。

原文12
普通では時間上の連続において先だつ者が能動者と考えられているが、時間上に先だつ者が必ずしも能動者ではない、能動者は力をもったものでなければならぬ。而して力というのは実在の統一作用をいうのである。たとえば物体の運動は運動力より起るという、然るにこの力というのはつまり或現象間の不変的関係をさすので、即ちこの現象を連結綜合する統一者をいうのである。而して厳密なる意義においてはただ精神のみ能動である。

リライト12
一般的には、時間的な連続の中で先に起きたものが能動者だと考えられていますが、時間的に先に起きたものが必ずしも能動者であるとは限りません。能動者とは、力を持つものでなければならないからです。この「力」とは、実在の統一作用を指します。たとえば、物体の運動は運動力によって起こるとされますが、この力とは、現象間における不変的な関係を意味します。つまり、この関係を結びつけて統合する存在こそが統一者なのです。そして、厳密な意味においては、精神だけが能動的であると言えます。

原文13
次に無意識と意識との区別について一言せん。主観的統一作用は常に無意識であって、統一の対象となる者が意識内容として現われるのである。思惟について見ても、また意志についてみても、真の統一作用その者はいつも無意識である。ただこれを反省して見た時、この統一作用は一の観念として意識上に現われる。しかしこの時は已に統一作用ではなくして、統一の対象となっているのである。前にいったように、統一作用はいつでも主観であるから、従っていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも無意識が活動であるといっているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。これに反し或意識を客観的対象として意識した時には、その意識は已に活動を失ったものである。たとえば或芸術の修錬についても、一々の動作を意識している間は未だ真に生きた芸術ではない、無意識の状態に至って始めて生きた芸術となるのである。

リライト13
次に、無意識と意識の違いについて述べてみましょう。主観的な統一作用は常に無意識であり、統一の対象となったものが意識の内容として現れるのです。たとえば、思考や意志について考えてみると、真の統一作用そのものは常に無意識で行われています。しかし、それを振り返ってみると、この統一作用が一つの観念として意識に現れることがあります。しかしこの場合、その統一作用はすでに統一としての働きを終えており、意識の対象として現れているだけです。先に述べたように、統一作用は常に主観の位置にあるため、必然的に無意識でなければなりません。ハルトマンも「無意識とは活動である」と述べていますが、私たちが主観の立場で活動しているとき、その状態は常に無意識なのです。一方で、ある意識を客観的な対象として意識したとき、その意識はすでに活動を失った状態になっています。たとえば、ある芸術の鍛錬について考えると、一つひとつの動作を意識している間は、まだ本当に生きた芸術とは言えません。無意識の状態に到達して初めて、真に生きた芸術が生まれるのです。

原文14
心理学より見て精神現象は凡て意識現象であるから、無意識なる精神現象は存在せぬという非難がある。しかし我々の精神現象は単に観念の連続でない、必ずこれを連結統一する無意識の活動があって、始めて精神現象が成立するのである。

リライト14
心理学の観点から見ると、精神現象はすべて意識現象であるため、「無意識の精神現象は存在しない」と批判されることがあります。しかし、私たちの精神現象は単なる観念の連続ではありません。それを結びつけ、統一する無意識の活動が存在して初めて、精神現象は成立するのです。

原文15
最後に現象と本体との関係について見ても、やはり実在の両方面の関係と見て説明することができる。我々が物の本体といっているのは実在の統一力をいうのであって、現象とはその分化発展せる対立の状態をいうのである。たとえばここに机の本体が存在するというのは、我々の意識がいつでも或一定の結合に由って現ずるということで、ここに不変の本体というのはこの統一力をさすのである。

リライト15
最後に、現象と本体との関係について考えてみても、それは実在の二つの側面の関係として説明することができます。私たちが「物の本体」と呼んでいるものは、実在を統一する力を指しており、現象とはその分化と発展によって生じた対立の状態を表しています。たとえば、「机の本体が存在する」と言う場合、それは私たちの意識が常に一定の結びつきによって現れるものであり、変わらない本体とはこの統一力を意味しているのです。

原文16
かくいえば真正の主観が実在の本体であると言わねばならぬ事になる、然るに我々は通常かえって物体は客観にあると考えている。しかしこれは真正の主観を考えないで抽象的主観を考えるに由るのである。此の如き主観は無力なる概念であって、これに対しては物の本体はかえって客観に属するといった方が至当である。しかし真正にいえば主観を離れた客観とはまた抽象的概念であって、無力である。真に活動せる物の本体というのは、実在成立の根本的作用である統一力であって、即ち真正の主観でなければならぬ。

リライト16
このように考えると、「真の主観こそが実在の本体である」と言わざるを得ません。しかし、私たちは通常、物体の本体は客観の側にあると考えがちです。これは、真の主観ではなく抽象的な主観を前提にして考えているからです。このような主観は無力な概念であり、それに対しては物の本体が客観に属すると考えたほうが妥当です。しかし、厳密に言えば、主観を離れた客観もまた抽象的な概念であり、同じく無力です。真に活動する物の本体とは、実在が成立する根本的な働きである統一力であり、それは真の主観でなければならないのです。